Part 6 の はじめに
Part 6 の はじめに
2012/01/22
「日本人特有の完璧主義が英語を喋るのを妨げている」と言う人たちは、完璧主義を捨てて英語学習に取り組むように勧めます。英文法や発音などの細かいところに捕われる必要はないし、通じるためなら身振り手振りで話しても構わないと言うのです。積極的に話そうとする、その姿勢は評価されてよいかもしれませんし、身振り手振りをしてまでも英語表現力の不足を補おうとする、その情熱は賞賛に値するのかもしれませんが、それで十分とは言えません。なぜなら、ジェスチャーは世界共通ではないからです。たとえば、日本人は自分の方に人を呼び寄せるときに「おいで、おいで」の手招きをしますが、それを見て、追い払われていると勘違いする人が世界には大勢いるのです。残念ながら、ジェスチャーで世界中の人と意思疎通を図ることには無理があります。
また、完璧主義を捨てて英語学習に取り組むべきだという主張は、英語の学びをいい加減にしても構わないと受け取られがちです。実際、完璧主義を捨てて英語を学ぶように勧める人の中には、英文法や発音などを学ぶ必要はないと主張したり、have、 give、get、make、take の5つの基本動詞で十分通じるので、英語表現をそんなにたくさん覚える必要ないと主張したりする人がいます。そこには学習内容を簡略化して、学習者にとって英語を学びやすいものにしようという思惑が働いています。学習内容を簡略化すれば、多くの人が英語に親しみ、勉強すると考える人々がいるのです。
そうした英語学習の大衆化に対して、日本マイクロソフト社の元社長・成毛眞氏は、著書『日本人の9割に英語はいらない』の中で警鐘を鳴らしています。英語をビジネスの公用語にしようとする楽天やユニクロのような企業に真っ向から反対し、早期英語教育は無意味だと大胆に切って捨てているのです。そのような警鐘に今こそ、私たちは耳を傾け、英語より優先して学ぶべき大切なことがあるのだと気づくべきではないでしょうか。
英語に親しんでもらおうとする世の風潮が教育現場にまで浸透し、その結果、教育のレベルが下がっていることに問題はないのでしょうか。小学校には外国語教育と称して、英語の歌やゲームが導入され、中学校には異国の雰囲気が外国人アシスタントの訪問によって演出されています。その外国人アシスタントは、発音を教える技能を持たない人がほとんどで、なかには教師としての資質もない人がいます。そうした人たちが時間潰しをするのを授業と呼べるのかどうか迷うほどです。異国の雰囲気だけで英語が上達するなら、ホームステイ・ツアーに多額のお金を費やしてきた日本人は世界一英語が上手なはずですが、そうではない現実が教育効果のなさを証明しています。雰囲気でごまかすような授業はやめて、英語を真剣に教えることに取り組むべきではないでしょうか。それには、まず、英語の授業を担当するのにふさわしくない人、すなわち小学校の先生や外国人アシスタントには、英語の授業から退いてもらうことです。そして、小学校の外国語教育を廃止するとともに、将来的に英語が必要になる人を見いだし、それらの人々を着実に育て上げるような教育課程を中学から大学にかけて設けるべきです。
数学を例にとると、高校の段階で理系の人は、より時間をかけて質的に高い内容が学べるようになっていて、さらに大学で数学を学ぶのは主に専門分野に必要な人だけに限られます。英語も数学のように、上に行くにしたがって履修者を限定していくようにすればどうでしょう。そうすれば上級になるにつれ、少人数のクラス編制ができます。大学で専門分野の文献を読むのに英語が必要な学生は多いので、そのためのクラスは必要数に応じて準備しなければならないでしょう。しかし、英語を書いたり、英語でスピーチをしたり、交渉をしたりすることが将来的に必要な人は、そんなに多くないはずです。そういう学生向けの授業を10名以下の少人数のクラスで行えば、教育効果が増すものと思われます。世界の多くの大学では、少人数制の語学教育が当たり前になっています。話す練習には、学生ひとりあたりの話す時間をなるべく長く取らなければならないし、書く練習にもきめ細やかな指導が欠かせないからです。
これからの時代は世界共通語の必要性がますます高まっていくでしょうが、現在のところ英語にとって代わる共通語は考えられない状況です。つまり、世界に向かって情報を発信し、主張の正当性を論理的に述べ、相手を説得するという真剣勝負の大部分が英語でなされる状況が、今後も続くということです。相手の言い分を正確に聞き取って理解するのに、先に述べた5つの基本動詞で十分なはずがありません。また、相手を説得するのには、状況や場を踏まえた言葉遣いができる教養のある人が求められます。そういう人が一貫した論理と豊かな表現力をもって攻めれば、世界を相手にする際の強みがさらに増すことでしょう。それに、これからの時代に英語だけが共通語であるとは限りません。英語以外の言語についてもコミュニケーション能力に長けた人材の育成を図らなければならないでしょう。どんな言語を使うにせよ、仕事に必要とされるコミュニケーション能力とは、なんとか通じる程度の言葉によるものではなく、教育を受けた人が話す威厳のある言葉によるものです。そのようなコミュニケーション能力を育む教育体制が整い、そこで目標を高く掲げて励む若者の姿を目にする日が、一日も早く来ることを願ってやみません。
2012年1月 著者